2005年11月12日

『海辺のカフカ』

 先日出席した結婚式の際、長い時間電車で過ごす時間ができるので海辺のカフカ』を読むことに決めていた。ようやく読み終わりました。
 村上さんの本を読んでいるといつも感じるのだけど、この部分がどうとか、あのキャラクターが考えていたことは何かとか、そういう「分析」のようには読めないのです。そこにある物語の中にそっと入っていって、何かを感じ、ことばを楽しみ、そして終わるという気がします。出てくる登場人物の誰がいいとか、どこがいいとかいう感想ではなく、全体に流れて「感じ取るもの」はとてもいいものでした。

  
 メタファー。とても不思議なことがおき、その原因、理由ははっきりされないのだけど(猫との会話、ジョニー・ウォーカー、石など)、そういう事象がすんなりと受け入れらるのです。だから、この部分がどうとかこうとかは抜きに、その世界に入っていけました。読んでいるときにその本の中で自分の何かが生きていることを感じます。「作り話」という感じでもなく、「謎解き」でもなく、どこか自分に通じるものを受け取りながら読める小説なのです。
 
 15歳というのは大人と子どもの境の微妙な年齢だったと思い出しました。何か損なわれていく感覚、15歳のころにはまだ感じませんでしたが、大人になったと思うのは少しずつ失っていくものが増えていくことなのかもしれません。ホシノ青年にしても、得たもの、失ってきたもの、それは目に見えるモノではないけれど感じることなのかもしれないと思うのです。どれだけ何か現実に見えるモノを所有したとしても、大人になり年をとるにつれて何かが少しずつ失われていっているように思える(ときどきそんな思いに駆られます)ものではないかと感じます。

 村上さんの小説を読んでいると「感じる」ことがあるのだけど、それをことばにして出していくのは難しく、またそれをしたくない自分がいます。ただ、感じたことを自分の図書館に閉まっておきたいと思ってしまうのです。

「……ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」
「たとえ自分に対しても?」と僕が言う。
「そうだ。自分に対してもだ」とサダさんが言う・「自分に対しても、たぶんなにも説明しないほうがいい」

 『海辺のカフカ』下巻 P414

 何かを「説明」する必要のあるものとないものがあり、「説明」したことでわかるわけでもなく、ただ何かを感じる、そういう小説です。自分の中の何かにときどき触れながら読むことができるのです。他の本を読んだとき、同じ本を読んだ人の感想を読みたいと思ったり、感想を聞きたいと思ったりすることがありますが、村上さんの本を読むとなぜかそういうことをあまり感じない。むしろ、ひとりでじっと考えて感じて、そしてしまいこんで満足してしまうのでした。

 
 


posted by kmy at 10:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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