![]() | おばけリンゴ (世界傑作絵本シリーズ―ドイツの絵本) ヤーノッシュ 福音館書店 1969-03 by G-Tools |
この『おばけリンゴ』の話、ずっと不可解だったのです。昔話風かと思いきや、念願のりんごを手に入れてもちっとも幸せにならないし。主人公のワルターは「リンゴがきらい」だと言うし(笑) 結局厄介者になったりんごをやっと処分したと思ったら、ラストでやっぱりリンゴを欲しがるし――と思っていたのですが、少し前にふと、この物語を思い出しました。今、ワルターの気持ちがちょっとわかる気がするんです。
主人公のワルターのリンゴの木には花が咲いたことがなく、もちろん実をつけたことがありません。心をこめて祈った結果、なんと花がひとつ咲き、りんごが実をつけたのです。
花が咲いたことで、ワルターの心は変化します。今まで羨ましく眺めていたものが手に入った喜び、それが育っていくうれしさ。
ほんとに、すばらしい まいにちでした!
こう表現されています。リンゴはどんどん大きくなり、今度は一変、疑心暗鬼になります。
そのうち、だれかに とられないか、 しんぱいになってきました。
とおりがかりのひとだって、 しんようは できません。
結局市場に売りに行くことになりますが、これがリンゴだなんてうそつくな、こんなおおきなリンゴなんてあるものかとなじられ、高く売れるのではないかいう期待は裏切られ、打ちひしがれた気持ちで家に帰ります。汽車にものらない大きなリンゴは文字通りの大きなお荷物。
かえると ワルターは また まいにち まいばん リンゴのばんを つづけました。でも もう、まえのように たのしくはありません。ほおはつちいろ、こころは はいいろでした。
ほんとに、なさけない まいにちでした!
この後は奇抜な展開が起こってワルターの手からリンゴがなくなります。でも、だからと言ってリンゴがお金になったり宝物になったり、そういうわけではないのですね。ほんと、厄介払いできた、そんな感じです。人々は喜ぶことがありますが、ワルターのリンゴの功績はないのです。でも、とにかくワルターはまた変化します。
びんぼうな ワルターの くろうや しんぱいは、いっぺんに ふっとんでしまいました。そして また、 ぴちぴち げんきになり、ほおも バラいろになりました。
さて、このあと、ワルターはまたこんなことを願います。
「ふたつで いいから、 リンゴが なりますように。
ちいさな リンゴで いいのです。
かごに はいるくらいのが ほしいのです」
やっと厄介払いしたのに、今度こそはふつうのリンゴを願うワルター。もう、リンゴは懲りたんじゃない?と以前は思ったのですが、なるほど、これがヤーノシュの持ち味だな、とこのごろ思うようになりました。
リンゴは願望、いえ、欲望と言っていいかもしれません。最初はささやかな願いでした。少しずつその願いが叶ったことに慣れてくると、より大きな期待を抱きます。それがリンゴの大きさとなって現れていくような気がするのです。もっとこうなら、さらにこうなれば、過大な期待を科すのです。願い、欲望と書きましたが、より具体的に表現すれば財産や恋人といった存在になるのかもしれませんが、いろいろな見方ができると思います。
肥大化した結果、自身の生活を脅かす存在となります。願いが叶えば幸せが得られると思っていたのに、まったく逆のことになってしまいました。
奇抜な展開で思いがけずリンゴを手放すことになってしまったワルターです。リンゴが高く売れれば、なんて思っていたのですが、本文を見る限りリンゴが何か財産的なものと交換したわけではなさそうです。単にリンゴのなかった貧乏なワルターに戻っただけです。
この結末の一歩手前、元のワルターの生活に戻ったことはヤーノシュのお話に共通な思想といえるものが流れています。欲望を叶えて、叶えて突き詰めていくその先に幸せがある? いいえ、常に煩わされるだけで、穏やかな気持ちでなんかいられない。何かがないことで得られる幸せっていうのがあるんだ、ということを感じるます。
私事ですが、最近、状況が少しよくなって区切りがついたのでほっとすることがあったのですが、それだけでもよかったはずなのに、今度はこうなればいいのに、と考えている自分がいました。これって誰かに似ている……ワルターだ!と思い当たったのです。ラストでの懲りたと思いきやワルターは「かごにはいるくらいのリンゴふたつ」を願っているワルターと自分はそっくり。そうなのです、またまたわたしのような普通の人間は小さな願いを知らず知らず持っているものなのかもしれません。ヤーノシュにやられた!という気分になりました。
ヤーノシュのこの絵本は理想論的に終わるのではなく、それでもやっぱり人間ってこういうものなのね、というのを示して終わります。『大人のためのグリム童話』の改版では、この考え方が受け継がれて発展しているように感じます。「長靴をはいた猫」のように「何もないほうが幸せ」を悟るという結末のものもありますが、人間の願望というのはなかなか変わらないものだという「青髭」(物語がエンドレスループのように終わり、『この世の終わりまで、以下同様』)のようになることもあります。『おばけリンゴ』はその両方の要素を持って終わっているように感じます。ワルターは何もないけど心は平穏という幸せを感じますが、やっぱり懲りずに同じことを繰り返す可能性も持っています。これはどちらになるかは、読み手にゆだねられています。
ちなみに子どもたちに聞いたら「全部面白い!」と言っていました。全部ってわかりにくいです。
☆2007/1/21 追記
みずきさん、noelさんからコメントを頂いて思ったことがあります。ラストの「ふたつのリンゴ」の願いは最初人間の懲りない欲望だと捉えていましたが、そうでもある一方、未来でもあると感じられるようになりました。財産、利益を追求してしまったワルターには何も残りませんでしたが、ふたつのリンゴを願うことはワルターにとって「未来」であり、闇雲的な利益の追求とは違うものだとも言えるかもしれません。ふたつのリンゴで得られる利益はわずかかものでしょう。しかし、それこそが生きていく次なる夢。失敗に終わったからと言って単に元通りになるのではなく、新しい未来を夢見ることが暗示されているのかもしれません。そう考えたほうがほっとする結末ですね。ワルターは未来を見据えている、なんだか希望を感じる結末になりました。
このブログでの関連記事
『大人のためのグリム童話』
『ぼくたちの宝物』
いつもいつも気になる本を紹介してくれる
kmyさんですが、今回はその中でもさらに気になってしまいました。
ヤーノシュの作品、私は読んだことないし、
これは読んでみたいですね。素直に読みたいなーって気持ちになりました。
叶わないことも辛いけど、叶ったら叶ったで
また別の欲が出て・・・
本当に計り知れないし、難しいんだなぁと
実感します。
願い事って尽きないですね・・
それが、今日も生かしているのかも、とも
思いますが。
童話ながらにリアルなお話の紹介、
ありがとうございました♪
ヤノーシュの作品、いろいろありますね。グリムの昔話同様 人間というものの本質を描いていますね。
人間って、何かの欲求が満たされた途端に、もう次の欲求がでてくるものなんですよね。それはしかたのないことなのかも。
「もう これでいい」ていうことは、決してない。
生きているって、そういうことなのかなぁ。
でも、
高いハードルに向かって、いつも頑張り続ける人。低いハードルを越えては、少しづつハードルを高くしていく人。
もし、どちらも最終的に同じハードルを越えるのなら、後者の方が幸せと思う時が多いでしょうね。
ちょっと論点がはずれたかな・・・
今から、ヤノーシュをさがしに 図書館に行って来ます。
叶ったら叶ったで欲が出る、それがいいとか悪いとかではなくて、素直に「人間ってそういうものでしょう」とヤーノシュに言われているように思ったのです。リンゴを育てている途中のワルターって凄く幸せだったのですが、だんんだん期待と重荷に変わっていく様子もわかる気がしました。
何か新しいことがあって、それを楽しんでいる途中の気持ち、そういうものは忘れないように、とも思います。
このお話は今までなんとなくすっきりしなかったのですが、最近よくわかるというか、素直に受け入れられるように思いました。
今を生かして、未来を見る、そんな気ががしてきました。
noelさん、わたしも今日は図書館に行ってきました。
ワルターも最初は本当に楽しそうだったのですが、リンゴそのものへの興味から、リンゴが財産となり利益となりうるものだと認識し始めたころから意識が変わったのだと思いました。
これでいいと思うのは難しいですよね。生きているうえである種の満足を保って現状のまま進むというのは不可能だと思いますし、いつでも何かしら前を見つめていなくてはいけないと思います。
noelさんい頂いたコメントを読みながら、今までなんとなくラストの「ふたつのリンゴ」が俗っぽい願いで好きではなかったのですが、ワルターの持つ未来志向として捉えるとなかなかいいものなのかもしれない、と思えてきました。
次があるから、未来がある、単に元に戻るだけが選択じゃないし、戻ったのではなく、別の未来を見た、と思えばお話がさらに魅力的に感じます。
ありがとうございます♪
お二人のコメントを読んで、少し「未来を見ていたワルター」の結末を感じるようになりました。追記しました。
実は私も去年の暮れにこの本を読んでとっても不可解でした。自分の感想がまとまらなでいました。kmyさんの記事やコメントを読んで ああなるほど と思う一方やはりまだ釈然としていません。
ワルターは最初願ったのは他の人と同じように自分の木にも実がなることだったとおもいます。ところがそのたった一つのりんごが巨大に育ってしまったためワルターはシアワセを感じると同時に負担をも感じたのではないでしょうか。非凡は喜びを招くとともに負担にもなる・・・ってことでしょうかね。
最後のちいさな2つのリンゴを望むワルターは非凡より平凡を望んでいるようで私自身あまり好感が持てません。希望といってしまえばそうともいえますが、あくなき欲求とも取れますね。
やっぱりなんとも形容しがたい一冊ですね。
この絵本の内容は簡単には表せないと思います。ぴぐもんさんのコメントでの解釈もなるほど、と思います。リンゴが果たしてワルターにとってどうだったのかというと、楽しみでもあったけど苦しみでもあった、という「何でもあり」のようなものになってしまってすっきりしませんでした。
特にラストの「ふたつのリンゴを願う」ところでいつも引っかかっていました。もういらないのでは、とわたし自身は思っていたので。
素直に楽しめない一冊ではあります。
学生時代にヤーノシュのパロディとグリムとの比較をしていたのですが、その際に参考になるかも、と思って買い求めたのがこの本ですが、この本の方がなんと言っていいかわからずに引っかかっていました。
ヤーノシュの本は無欲な幸せという考えが出ているようなので、そのあたりを含めてみると、自分なりにこうなのでは、と思うところはあります。なんとも形容しがたい一冊というのもわかる気がします。はっきりしない不可解さがある本ですが、それだけに忘れなない一冊です。