2006年11月06日

『かべは知っていた』


三田村 信行, 佐々木 マキ / 理論社
Amazonランキング:219,764位
Amazonおすすめ度:
大人になってから読んでよかった。



 『おとうさんがいっぱい』に収められている『かべは知っていた』という物語は二つの側面があって、そのどちらにも感じるものが多いのです。
 いつものようにおとうさんとおかあさんの言い争い。おとうさんは週刊誌で「かべの中に入った人の話」を読んだと言い出します。
小説なんかじゃない、実話だぞ。なんでもその人は、世の中がいやになって、それでかべの中にはいっちまったんだそうだ。そのかべは見たところはうすっぺらなしっくいかべだが、かべの中にはふしぎな空間があって、その人は、そこに落ちこんだというんだな。その空間にいると、ふしぎに腹もすかなければ、からだの調子もおかしくない。
p145

 おとうさんがかべの中におれも入ってやると言い出したのにはこんな理由がありました。
あくせくはたらいても、ちっともおまえたちに感謝してもらえない。感謝どころか、いないほうがせいせいするなんていわれる。これじゃあいくらなんでもやりきれない。そこで、かべの中にはいっちまうことにしたんだ。かべの中ならガミガミいわれることもないからな。かべの中でのんびりくらしたくなったってわけさ。
P146


 このおとうさんの言い分に思い当たる人は多いのではないか、と思います。毎日の中で、自分がいろいろがんばってやっているのに、あまり認めてもらっていない気がする、自分がいなくなればみんな困って自分のありがたさがわかるかもしれない。あるいは、毎日のあくせくした状況で、いつまで続くかわからない「終わりのない日常」からふっと離れて自由になりたい、そう思う気持ち。自己の価値の肯定と逃避願望を言い表していると感じました。しかし、これが実際に現実となったら、思う通りとはならなかった、というのがこの物語が持つ恐ろしさです。
 
 おとうさんは自分の願望がかなって、かべに入ってしまいます。息子のカズミだけがそのことを知っています。おとうさんは最初のうちは面白がっています、おかあさんが心配する様子を感じて満足します。心配したおかあさんは捜索願も出しています。そろそろ出て行こうか、と思うものの、なぜか出てくることができなくなってしまいました。こうなると面白がってもいられなくなります。そして次第におとうさんの不在におかあさんは慣れていき、仕事を見つけ、服装が変わり……。
 一方、おとうさんがかべの中にいると知っているカズミはおとうさんの要望に応えたり、不満や愚痴を聞かされるのに付き合います。そしておとうさんの「最後の願い」を聞くのですが……。

 誰でも経験のあるであろう卒業や引越しなどを機とした別れの際、これまでの付き合いから「ずっと仲良くしていようね」「これからも変わらず」と思うものですが、実際のところ、こういう絆はもろい、と思ったりします。時と場所を同じくしてつながることの出来た関係は、「会わない」ことにより薄らいでいく。そしていつしかお互いに「思い出」と「過去」の中になることも多くもの。「あの人、どうしているのかな」とふと思い出したり。逆にわたし自身も誰かの思い出の中にいるのかもしれません。この物語は感じることが多いです。

 かけがえののない自分を確認したいと思ったのに、逆に自分の存在の不確定さをより強く感じ、不安定な気持ちになる物語です。思っているより実は自分自身の存在って危ういのかもしれません。
posted by kmy at 10:58| Comment(5) | TrackBack(0) | 三田村信行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
きのうから拝見していて、こりゃ読まなきゃいかん!と思って早速図書館に予約を入れました。

自分自身は、いつも不確かな存在だと感じます。
どうも地に足が付いてないような(汗
Posted by ヤヤー at 2006年11月06日 20:34
なんとも空恐ろしいお話のようです。
kmyさんのおっしゃる「時と場所を同じくしてつながることの出来た関係は、『会わないこと』により薄らいでいく」と同じ事を、最近よく考えていました。
私にとってかけがえのないものだと思っていても、きっと時と共に忘れていくのだと、半ば諦めをもって。
なんだかあらゆるものが不確かな存在に思えます。
Posted by 二尋 at 2006年11月06日 22:45
ヤヤーさん、興味を持ってくださってありがとうございます。消えてしまいたい願望ってときどきありますが、実際に消えてしまったら……結局自分の存在を他人にわからせるなんていう気持ちがいけませんね。
ネットにおける存在というのもなかなか不確かな感じもします。

二尋さん、年を重ねるにつれて、出会う喜びよりも別れて疎遠になる寂しさを感じるような気がしています。連絡を取り合うつもりでも、いつしか自分とは違う日常にいる友人に気がついたりします。特に、年賀状シーズンになると、思うことだったりしますが。
不確かさを感じながらも生きていくものなのかも、と思いますが、こういうタイプの話は結構惹かれるものがあるので、他の作品も読みはじめているところです。
Posted by kmy at 2006年11月07日 14:49
う〜ん、読んでみたい!
kmyさんの「後味の悪さがクセになる」というのが、なんとも魅力的な誘い文句になっています。
「ぼくは五階で」は、“引きこもり”を
思い浮かべました。最初は「出たいのに出られない」だったのが、その内、あきらめて閉塞感とともにトロトロと腐っていく快感みたいなのが、あるのでしょうか・・?
「かべは知っていた」という話も面白そうですね。自分の失踪や葬式を想像して、あの人は悲しんでくれるだろうか、周りはさぞ困るだろう、などと不埒な考えを楽しむのは、誰にでもあるものなのですね。人間というのは、他人によって自己確認をしているから、知人全員から「お前なんて知らない」と言われたら、気が狂うだろう、と以前本で読んだのを思い出しました。
人なんて所詮その場限りの存在なんだ、なんて、最近私も厭世的に思ったりします。
Posted by Helenaヘレナ at 2006年11月08日 09:40
ヘレナさん、こういうタイプの児童書が好きなのだと、改めて自分自身再発見です。不思議な話、奇妙な話でラストで安心できないような、続きが気になる話は面白いです。
「ぼくは五階で」は出たいのに出れない状況に苦しむ主人公という感じの話で、出れない状況に詰ってしまったその先に、いったいどうなるのか、どうしたらいいのか、という不安感を残したまま終わります。
「かべは知っていた」を読むと、思っているよりも他人は自分の存在に無頓着なものだと改めて感じます。他人によって認めらているものでもないのだから、自己の存在を自分自身で再確認ということを思い起こさせるようなものがラストにはあると思いました。主人公のおとうさんがかべに、ということなので、主人公とおとうさんの二側面で感じることがあって、このお話はお気に入りです。
Posted by kmy at 2006年11月08日 20:48
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