2006年10月05日

『天の鹿』

天の鹿

『天の鹿』 安房直子作 スズキコージ絵 ブッキング

 この本はもともと筑摩書房で出版されていたそうで、初版発行は1979年。残念ながら、近所の図書館には所蔵されていなかったのと、長らく絶版だったためにこの物語に初めて出会ったのは『安房直子コレクション』の一篇としてでした。もともとスズキコージの絵だと知り、挿絵も物語もともに気に入ってしまった一冊です。

 鹿討の名人清十さんがある日出会ったみごとな鹿。その鹿に連れられて清十さんは鹿の市へ。そこにいられるのはきっかり一時間。鹿の市の品々、値段はどれも金貨一枚。清十さんはもらって金貨で何を買おうか悩みながら、三人娘のことを思い浮かべて品物を選びます。そして、三人の娘たちも次々と鹿と出会い、そして鹿の市へいくのですが――。

 安房直子さんはグリムやアンデルセンなどを好んで読まれていたそうです(『ものいう動物たちのすみか』偕成社刊 エッセイ参照)。この『天の鹿』もこうしたメルヘンの影響が色濃く出ている作品で、三人の娘がそれぞれでかける鹿の市の場面はメルヘン的繰り返しに近いものがあります。姉娘と末娘との選択の違いが結末の違いへ向かう様子もメルヘンと同様です。それでいて、安房さんの作品はグリムなどとは違う世界が出来上がっています。とりわけ品物の描写は鮮やかで、実際に見てきたように読み手はうっとりとさせられるのです。

ひょいと目についたのが、珊瑚のかんざしのとなりにある紫水晶の首飾りでした。その色が、さっきとびこえた谷川の水の色ににているように思えて、(略)

翡翠の帯どめを、一匹の鹿が美しい反物とひきかえに買っていくところです。帯どめは、春の若葉の色をしていました。それととりかえられた反物は、いつかたった一度見た海の夕日の色でした。

(本文P36〜37)


 『白いおうむの森』(ちくま文庫版)の解説(松谷みよ子さん)でこんな部分があります。

「物語の発生って私にとっては、芝生の上を鳥がちらっとかすめていく。ちらっとした影のようなものが心に落ちて、何かがはじまるのだけど、安房さんはどうかしら」
 少しぶしつけに、そんなふうに安房さんに問いかけてみました。
「私は、ものなんです。たとえばティーカップとか、大根とか、おさかなとか。テーマが先にあって、考えるのではなくて、何かがふっと心にとまって、それをメモしておく、そのうちまた、何かが浮かんでメモしておく、そんなふうに物語がふくらんで、書けるな、と思ったところで書くんです。だから短編しかかけないのかもしれません」
『白いおうむの森』安房直子作 ちくま文庫 P208)


 この解説に書かれているように、安房さんの作品にはいつも魅力的な「品物・もの」をメインにお話が進んでいるし、その「もの」の持つ魅力に見せられた主人公のお話に引き込まれていくのだと思いました。そして、この『天の鹿』なのですが、紫水晶の首飾りを選んだ清十さん、反物を選んだ姉娘、ランプを選んだ姉娘。二人とも選んだ品物は現実の世界では鹿の市でみたときとは違った結果になりました。そして末娘のみゆきが選んだものは宝石でも着物でもありませんでした。
 鹿の市には食べ物が出てくるのですが、「品物」ではなく、「食べ物」の持つ機能がとても興味深く感じます。物を食べた記憶というのは、実際人間の中にいつまでも残るように感じます。品物というのは飽きてしまったり、無くしてしまったり、手放したり、とそこにある(ない)ということで、感情がそのつど生まれますが、「食べ物」というのな一瞬の記憶の世界で、そこで強烈なインパクトがあれば、その後同じものを食べなくても同じ感情がずっと残ります。また、旅行などで物を買った物よりも、食べた記憶というのは大きいのではないか、と感じました。さらに言えば、その土地のものを食べることで、その土地を知る、食べ続けることはその土地の住人になっていくようにも感じます。こうしたことが、鹿の市と食べ物の関係にもありそうな気がしています。

 安房さんの作品に出てくる品物は、現実的な宝物(利益を得るもの、金銭的な幸せを約束するもの)ではありません。心の奥深くに誰もが抱いているものを引き出していくようなそういう機能を持つものです。これは時として欲をさらけ出すこともありますが、忘れがちな憧れや夢、想像などを引き出し、その世界へ送り出しているようにも感じます。夢や憧れという心象的世界をバランスよく保っていることで人間は生きているのではないかと、わたしは時々思うのですが、時として、人間自身もこの想像や夢の世界へ行かなくてはいけないことがあるように思えます。生きていくことは永遠ではないし、その先(死)があるわけです。この作品に出てくるのは清十さんに打たれた鹿でした。その鹿が求めたものは、これから先に行く世界へ旅立っていくときに必要なもの。物ではなく、心を求めていたと感じる作品です。

 安房さんの本は世俗的なハッピーエンドのお話は少ない気がします。欲望の持つ恐ろしさ、それを捨て去ったときに心の中にあるもの、その世界をふと感じるのが安房直子さんの物語の魅力ではないかと思います。


 
posted by kmy at 14:28| Comment(4) | TrackBack(0) | 安房直子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この本は復刊すると知ってまず図書館から借りました。復刊したものと、スズキコージさんの絵を比べたかったので。

安房さんの書く物語はレヴューしにくいものが多いです。
それはやはり人間の持つ欲望の裏の悲しさが、そこかしこから感じられるからということは強く思いますね。
食べるという行為は「生きる」ことと直結しているので、特にこういう昔語りの要素の強いものでは印象に残るのでしょうね。
kmyさんの考察の鋭さに、いつもはっとします。

老いや死は遠く感じられるけれども、実は身近なもの。

>時として、人間自身もこの想像や夢の世界へ行かなくてはいけないことがあるように思えます。

というkmyさんの意見に、とても共感します。
この本はお気に入りのひとつになって、いつもその辺にあります(笑)。
書棚に入るヒマがありません。
Posted by ヤヤー at 2006年10月05日 15:09
ヤヤーさん、ありがとうございます。考察といっても大げさなものではないのですが、うーん、本当に安房さんの作品はレビューしにくいものが多いです。物凄く惹きつけられる何かがあるのですが、それをこれ、と言い切ってしまえるほど簡単なものではない感じがしています。人間性を端的にメルヘンの手法で描いているというのでしょうか。憧れ、夢、恋は時として強い欲に変わったり、後悔になったり、見知らぬものを見たいということが、いつしか恐ろしいものに変化していくような、そういう印象もあります。ということで、この記事は3ヶ月くらい悩んで書いていました。
旧版の筑摩書房からでている本は一度もみたことがなく、最寄の図書館にもないようで残念です。
年を重ねるにつれて、またいろいろな意味が見えてくるような、そういうお話を書かれていると感じます。
好きな話ではあるものの、何がどう、というのは本当に難しい〜と思う本でした。
Posted by kmy at 2006年10月06日 13:46
私も読んでみたい、と思って探してみました。
旧版、うちの図書館にはあるようです。
明日にも、早速借りてみたいと思っています。

新版とは、違いがあるのでしょうか?
逆に新版がないので、そちらが気になったりします。
Posted by ゆっこ at 2006年10月23日 22:55
ゆっこさん、ぜひぜひ読んでくださいませ♪
若きスズキコージの絵が見れるということが復刊.comに書いてあったのですが、おそらくその当時のままだと思います。中身もきっと一緒ですよね。
オークションサイトで表紙を見ましたが、旧版は「鈴木康司」で新版は「スズキコージ」になっています。背の「筑摩書房」も「ブッキング」になっていますので、そこだけスズキコージ氏が書き改めたのではないかと思います。文章だけ読んでいると日本民話風なのに、絵がそうでもない感じがして、素敵です。
Posted by kmy at 2006年10月24日 16:44
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