37歳、バオバブ・ブックス編集長のマチムラユキオは風邪を引いて薬を飲んで寝ていたら、ピストルを作る夢をみます。ゆめからさめたかと思ったら、おかしな小人みたいな人が現れて、パトカーに乗せられ連れて行かれてしまいます。そこで「モドコ」になってしまう、というお話。
ゆめと現実がごたまぜになって、いったいゆめをみているのか、そうではないのか、というおかしな感じです。現実は現実としてあるのだけど、ユキオがなってしまった「モドコ」。モドコの仕事はゆめを売ること。しかもここで「売る」というのは飲んで寝ると好きなゆめを見れる薬をお金と一緒に渡すことだというのです。大人たちは大喜び。大騒ぎで薬をもらおうとします。モドコを作り出したゆめの小人とユキオたち「ゆめゆめグループ」は子どもにもゆめを与えたいと思って行動を起こしますが、思うように行きません。
「おかしいよ、子どもは、だれもゆめのくすりを買わないんだ。」
(略)
「ユキオは、ゆめを見たい子どもにであわなかっただけのことさ。さがさなくっちゃ。さがしだして、売るのさ。どりょくがたりないね。」
(略)
「あたしはちがうと思うわ。ゆめが見たくない子どもなんて、いないはずよ。みんないいゆめが見たいのよ。でもね、いいゆめって何か、知らないだけよ。」
そしておそろしいことをいいだしたのです。
「こうなれば、むりにでもゆめを見させてしまうのよ。ゆめのくすりを、子どもたちにちゅうしゃしちゃうの。そうすれば、ゆめを見るでしょ。ゆめをみれば、すばらしいことがわかるはずだわ」
P82〜85
夢を与えるとはいいますが、子どもがどういうことを考えているか、子どもの目線から出てくる物語だと感じます。もし街頭で好きな夢を見れる薬(現金のおまけつき)があったらどうするでしょう。もらってしまうかもしれません。せめて夢の中では何か思うようなことが起きてほしいと思う、お金までもらえてラッキー! この発想は大人なんですよね。もう夢を与えてもらうくらしか夢をみれないのは大人のほうなのかもしれないと思ったりします。思えばわたしもすっかり大人になってしまった気がする。こんな薬があったら、飲んでみたいと思ってしまう。
終わり方が結構いい感じというか、続くあとがきもおもしろいというか、そういうお話です。
ゆめのおしうりはいけません。子どもにゆめを与えよう、などと。考えている大人がいるのはこまりものです。どんなにこまりものであるか、わたしはそれを物語にかいてみました。
P172 あとがきより
ゆめというのは与えられるものではないんですよね。与えられるゆめなんて、おもしろくもなんともないものだというのは、子どものころに思ったはずです。それが大人になると、今の子どもはゆめがないなんていうんですよね。それって何十年も変わってないのかもしれません。寺村さんの童話はシュールだけども、暗さがありません。じんわりというのではなく、からっとしている。子どもという時代に何を思うか、子どもって何なのか、分かるような、思い出せるような、そういう感じがします。